Hideのおすすめ本とエッセイと絵と詩などのブログ

おすすめ本やエッセイ、絵、現代詩などを載せていきたいと思っています。

エッセイ 法律の厳罰化傾向

法律の厳罰化傾向が続いている。法律専門のお役人方は、法律を厳罰化すれば、犯罪は減るとでも思っているようである。これは、簡単な算数なのであるが、法律が厳罰化されたお陰で、自動車によるひき逃げ事件がなんと増えていることだろうか。


人間の心は、算数では測れない。こんな単純なことも(じつは深過ぎる理なのだが)お偉方は、簡単に失念してしまうようである。


人間は、これはという人物と出会ったときに、はじめて反省する。儒教が、何度も繰り返し言っているように、義と礼を以って、はじめて恥を知るのである。


時代がいくら変わろうが、人間の心の構造は、変りはしない。人間は、塀や制裁金などで、反省するものではない。「免れて恥なし」である。


ところで、現今、義と礼を身に付けたような人物がどこにいるだろうかという問いは、こう書いてくれば、必至だろう。


さて、どこにいるか。これは、探そうとすれば、居なくなってしまう人と言って良かろうか。ただ、そういう人は少数だが、いつの時代にも必ずいるものであるのは、変わらないことであるようだ。


エッセイ ベートーヴェン 熱情<アパッショナータ>

ベートーヴェンにしては、思わせぶりな曲だと長年思ってきた。


グールドもベートーヴェンのアパッショナータが何故あんなに人気があって名曲と言われるのか、訳が分からないとどこかで言っていたが、グールドの言うことは、半分眉に唾をつけて聞かないといけないから、素直に賛同はしていなかった。


それで、つい最近、ホロヴィッツのアパッショナータを聞いて、この曲を改めて見直した。70年代のと59年の録音があるが、59年の方が断然いい。それにしても、演奏家によってこうも感じが変わる曲も珍しい。


ホロヴィッツの弾き方は、感性が超人的に制御されたもので、一音たりとも気ままに響かせている音がない。音の美しさはホロヴィッツならではものだが、どこまでいっても音が見事に支配されている。それなのに、ちゃんとベートーヴェンの溌溂としたbrioがある。ホロヴィッツが神様扱いされたのもまた頷けるというものだろう。


グールドは、ホロヴィッツについては目の敵にしていたから、当然、この名演も聞いていただろうし、自分の演奏が彼に及ばないことも分かっていたろう。それで、先の言葉となった所以も納得できた。


だが、ホロヴィッツには後期のベートーヴェンはレパートリーに入っていなかったようで、録音がまるで残っていないし、他の所謂3大ソナタで売られているもの(「月光」とか「悲愴」とか「熱情」とかの組のやつである。日本のクラシック後進国性を如実に表している売り方ではないか。あだ名のついた曲なら売れるというわけだ。)も、アパッショナータの他は見るべきものはない。ただ、59年のアパッショナータと一緒に入れてある7番は名演である。


そもそも、ホロヴィッツはベートーヴェン弾きではない。そうして、ベートーヴェン弾きがすべてのソナタを満足に弾けるわけではない。そう考えて見ると、ベートーヴェンという現象はどれほど桁違いの大きさを持った人間だったのかと呆れる思いがする。


ギレリスもいいが、ホロヴィッツのような切れ味の良さを感じないのは残念。ゼルキンのも良いそうであるが、わたしはまだ未聴である。


「星と宇宙の科学」佐藤文隆・海部亘男 新潮文庫

星や宇宙のことが知りたいと思う人には、うってつけの本です。二人の科学者が互いの情報をもとに、最新の星や宇宙の情報を提供してくれます。宇宙の卵は、原子よりも小さかったと語られるとき、わたしは思わず息をのみ、物理学によって提供される知見に圧倒されるような思いを抱いたものでした。豊富な写真や図柄も盛り込まれ、星や宇宙のことに関して興味のある人にはぜひ手に取ってもらいたい一冊です。


「読むクスリ」上前淳一郎 文春文庫

読むと、気持ちが浮き立ち軽くなるような話を集めた本です。週刊文春に連載された好評のシリーズもので、本は十数巻出ています。上前の語り口は軽妙で、上質な現代の小話を聞いているような趣があります。ちょっとした感動を誘うものや、品のいいエスプリの利いたもの、実業家たちの武勇伝等々。読めば、自然と微笑がこぼれ気持ちが晴々としてくる本です。


エッセイ 日本の歴史<リレーということ>

リレーということで、常日頃考えていることがある。日本の文化歴史の特徴に、このリレーということが大切な役割を果たしているということがあると思うのである。


日本仏教の浄土教の法然・親鸞のライン。戦国時代の信長・秀吉・家康のライン。近くは維新期の吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛等のライン。つまり、日本の歴史の流れの要所要所では一人の人によって、作られた改革・革命はないということなのである。


目を世界に転じると、たとえばイスラームの発祥期ではムハンマドがまったく何もかも、一人でやってしまっている。詩人であり、革命の予言者であり、革命家であり、革命後の世界を整理した政治家であり、もちろん宗教家でもあった。あらゆることを具備した大人格であったといっていいのだろう。また、キリスト教でも、イエス・キリスト一人が、どれほどその後の欧米圏の歴史の重みを超人的に背負っているか知れない。


そうして、わたしは考えるのだが、日本のこの一人に拠らない、人と人とのリレー形式をとる歴史の流れは、決して一人による大改革を果たした諸外国の歴史と優劣がつくものではないということである。


むしろ、恒久に歴史が存続するという観点においては、日本のこのリレー形式の方が優っているとさえ言えるのではないかと思っている。