Hideのおすすめ本とエッセイと絵と詩などのブログ

おすすめ本やエッセイ、絵、現代詩などを載せていきたいと思っています。

エッセイ きれぎれ草 6

美しく貴重な感情には、礼儀の衣が欠かせない。


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形式は、法則というよりも礼儀に近い。


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俳句の五七五形式、季語は礼儀そのものと言える。


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読書は、レコード針とレコード盤の関係に似ている。
早く読み過ぎても、遅く読み過ぎても何も分からない。


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自然は人間に放心を許したが、社会というものは人間を放心させまいとする。


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人間は、本当の精神の前では、決して自分を偽ることができないものだ。


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哲学が永生の片影でも、本当に見せてくれるものであるなら、あらゆる学問、芸術は空しくはないだろう。


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人を一人理解するというのは、骨の折れる労働である。少なくとも良書を百冊読むことよりも楽な仕事ではない。


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誰の拍手も期待しない芸術家というのは、稀なものである。だからと言って、そのことで、芸術家としての品位が問われるものではない。


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フロイト
世界観を、どのような意味でも、決して現さなかった学者。
初めて、フロイトを読んだときの異様な読後感は、よく覚えている。まるで、本棚の中に奇怪な異物が入り込んで、どのような鑑賞的態度もきっぱりと退けるといった姿勢には、驚かざるを得なかった。
フロイトは自分というものをまるで現さない。学問を根底においた高級な自己表現さえ、フロイトは峻拒している。
それも、是非とも世界観を提示せよと詰め寄る相手に対し、穏やかにその手を振り解くといった趣で、わたしはこのことについて色々なことを考えさせられた。
あらゆるものがあらゆるものと、関係性を持っているという魅力的な美しい世界観にせよ、科学的真理を背景に持つと自負する世界観にせよ、本当のところ、世界とは何であるか誰も知らない。わたしはそういうものを論じようとは思わない・・・・。
 こういう人によって無意識心理学が創始されたということは、興味のあることである。



エッセイ きれぎれ草 5

   福井の方の年始行事に、弓打ち講というものがあるそうで、的に矢を放ち、その年の吉凶を占うものだそうだが、これは的に矢が当たらないときの方が、吉で、却って的に矢が当たってしまっては、凶事が起こるとされているそうである。
 批評ということと、重ね合わせてかんがえてみるのだが、あまりにも的確で、息を飲むほど的をついている批評というものは、なにかしら不安で、すこし不気味な感じさえ与えるもので、的を外した方が、吉事が起こるというのは、おもしろい考え方だと思った。
 的を狙って、外しているのか、当たっているのか分からぬような徒然草のような名文がある。
 徒然草のあの全体的に明るいトーンは、いったい、どこから来ているのかと、わたしはよくかんがえることがある。批評精神の横溢した随筆が、なにゆえあのような明るさを持ち得るのか。
 徒然草に比べると方丈記の方は、もっと切迫していて痛切で色調が暗い。目立つような矛盾もなく、一貫していて分かり易いが、仏教的な抹香くささが強く漂っているのは、どうしても否めない。
 その意味では、徒然草の方が、はるかにのびのびとした自由な批評精神がある。批評も行き着くところまで行けば、批評自身を否定するようなものであるようだ。


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 分からないということは、不安なことであるというより、むしろ不快なことである。だからそれについては、多くの人は心を閉ざす。分からないことが、自分にとって何か大切なものではないか、と思い始めるとき、人ははじめて不安にかられる。


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 人と話をしていて、何をどう言っても通じようのないときがある。あとで振り返って見ると自分の険しい雰囲気や苛立った仕種などがすでにものを言っていて、話す言葉はことごとく果敢なく宙を舞っているような状態であることが分かる。
 そういうときは、語調にもすでに押し隠された棘がある。雰囲気や仕種は確かに言葉より雄弁である。


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 天才の作品を理解するのには、必ずしも天才であることを要しない。むしろ、天才は他の天才を理解するのが苦手なようである。自分の中の強力な創造力の文脈があるから。


「銀河鉄道の夜」宮沢賢治 新潮文庫

賢治は謎めいた詩人です。賢治の作品にはまぶしい光が散乱している感がありますが、その光がいったいどこから来ているのかまったくの謎です。また、初期の詩集「春と修羅」に見られるように、自我意識のにごりと格闘せざるを得なかった典型的な近代人であるにもかかわらず、どの近代人にも到達できなかった、いわば、底光りのするような透明感を持っています。これは「銀河鉄道の夜」の大きな特徴ですが、賢治がいったいどのような道をたどって、こうした群を抜いたすぐれた境地に達し得たのか、未だに分かっていません。日本が生んだ最良の詩人の一人であり、また、今日的な難問を投げかけてやまない詩人です。ただ、賢治が非常に純良な法華信者であったということ。また、賢治によって、じつに深く法華経が読まれていたということは、この謎に推参するための大きな手掛かりとなるものと言っていいかもしれません。


「作家の態度」福田恆存 中公文庫

小林秀雄は福田恆存<つねあり>の人物を評して「良心を持った鳥のような人だ」と言っています。ボードレールは滅びゆく貴族階級を範にして自分の生き方にダンディズムを取り入れましたが、福田は日本人的な直感で、これからの時代は俗物的な視点が欠かせないとスノッビズムを創作態度の中に取り入れました。この書は、近代日本文学の問題点を独自の視点から掘り下げたものですが、独創的な卓見に満ち、未だにこれを越える批評は出ていません。芥川、志賀の章などは卓越した論です。

エッセイ きれぎれ草 4

2018年サッカーW杯
 日本対ポーランド戦での、日本へのブーイング試合。
あれこそ、本来の、古風な意味合いでの「やまとだましい」「やまとごころ」を持った日本侍選手たちの試合なのである。
 「武士道」とは、だから、定義するのが、まったく困難な、じつに含蓄に富んだ言葉なので、一種の精神主義とは、一線を画するものなのである。


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ある空想<短詩型文学>
 心に響く俳句や短歌をよむとこんな空想が湧いてくる。俳句や短歌が書かれた紙が風に吹かれて飛んでいく。あるものは道端なり川岸なり石の下なりに落ちている。それはずいぶん昔に書かれたものでも、現代になってから書かれたものでもよい。
 字はすこし読みづらいようなところはあるが、あるとき、ある人間が詠んだものには違いなく、それが、偶然自分の目の前にある。
 まるで、何かの音信を受けたように、自分自身を世界の直中で見出したように感じ、そうして、今まで詠まれてきた、また、これからも詠まれるであろう俳句や短歌が、自然やあるいは町中の至る所に散らばって隠れているような気がしてくる。そんな空想が湧く。


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 芭蕉の句集をよんでいると、芭蕉には一生かけて追い求めていたイデーのごときものがあったのではなかったかとかんがえることがある。
 ある何がしか、これしかないというもの。少なくともそういうものを追い求める姿勢は、芭蕉は生涯を一貫して崩したことがないように思える。 
 自由な連想になるが、私は芭蕉の句を思い浮かべると念仏を連想し、対して、蕪村の句を思い浮かべると題目を連想する。
 芭蕉の句の、あの沈み込むような感じや、単一なイントネーションの処理の仕方は、句集全体を通して変わらない。極めつけの頑固さで、まったくよそ事に色目を使わない。専修念仏の求道者そのものと言った趣がある。色調は暗いが、強い光が明滅する。
 それに比べると、蕪村は多彩で遊びがある。全体の色調は明るく開放的で、豊かな想像力はのびのびと発揮される。淋しさの表現も比類がない。
 けれども、思うのだが、これは芭蕉が独力で切り開き、礎を据えることに成功した俳諧文芸の基盤の上に立っている豊かさではないかと、どこかで思う。
 蕪村は熱烈な芭蕉信奉者だったというが、そうだったろうと思う。蕪村は自分の文芸が何を拠り所としていたのか、よく、知っていたのだろう

 それで、先程の連想だが、全人的ということで文芸は、宗教に劣る。だから、これを宗教的な事柄にまで敷衍してかんがえてしまうのは、明らかな違反であることを断っておかなければならない。