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おすすめ本の紹介文やエッセイ、絵、人物画、現代詩などを載せていきたいと思っています。

エッセイ バッハ <パッサカリアとフーガハ短調>

十五分ほどのオルガン曲だが、わたしが始めて、バッハの音楽に触れ得たと思ったのは、この曲だった。この曲には、甘く人を酔わせるような音は一音もない。


学生時代、ある本で推薦されていた、この曲のレコード(当時はCDではなく、レコードだった)を買って聞いたときのことは、よく覚えている。いや、はじめて曲を聞いたときの感動をそのまま覚えているとは、言うまい。それはわたしには不可能なことだ。


むしろ、この曲を聴くたびに感じられる無定形な感動を、どうにか、言葉に移し替えてみようと思うだけである。


まるで、バッハという謎めいた音楽家から「これが音楽だ」と胸の奥に手痛い痛棒を食らい、身じろぎさえ出来ずにいるわたしの頭の中を「音楽とはかくも苦く辛いいものだ」という不思議な感慨に、どうしようもなく襲われ、その音楽としての量感に強く説得される、不手際に言えば、この曲を聴くたびにそうした感動を、ずっと重ねて来たもののようである。


いやと、ある人は言うかもしれない。「最終部分は明るい日が差している音楽ではないか」と。だが、それは報われた喜びではないと、わたしは言うだろう。確かに明るい貴重な日が差すのはわたしも認めるが、それは、虹のような実在性に過ぎなくはなかろうかと。


ともあれ、非常な緊張感に満ちた十五分ながら巨大な曲である。未聴の方は、ぜひ一聴を。


エッセイ シンクロニシティ

「共時性、同時性」などと訳されるが、今ではユング流に「因果的には説明できないが、意味のある偶然の一致」と訳される語で、平たく日本語で言えば「縁」である。


ユングの考えの土台となっているのは儒教の「易経」で、縁は仏教用語だが、この東洋思想両者に共通する、事象がシンクロナイズするという現象は、西洋の学問の枠組みからは、その埒外に置かれることになった。


いわゆる実験による再現性が不可能という理由にも拠るが、背後に一神教を構える西洋においては、それは神の領域での出来事であって、人間が直接それに触れることを、忌避する根強い慣習があったことを忘れてはならないだろう。


日本には「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるが、易経を深く学んだ西洋の学者は、この言葉は分らぬと言う。言わば、易経の言葉を神の託宣扱いしてしまうのである。


占いは魔女狩りと深い関係を持っている。西洋占星術と魔女狩りは表裏一体のものである。


今でも、あり得ない的中率を掲げて、占いを商売にしているものがいるが、本居宣長の言葉を引こう。「占いは六七割は当たるものだが、当たる当たらないということはさして大きなことではない。そういうものに心を砕いていてはいけない。」短い言葉だが、これは的中率から言っても、占いというものをよくよく知った人の言葉である。


シンクロニシティという現象は、確かにあると言えるものであるが、これは自分のものとすることは、元々出来ない相談のものであると心得て置くことは、重要なことのように思える。

「とりかへばや、男と女」河合隼雄 新潮文庫

日本中世の王朝文学「とりかへばや物語」を、まったく新しい角度から切り込んだ河合隼雄渾身の性の劇です。男らしい女を男として、女らしい男を女として育てるという、この物語の趣向は、荒唐無稽なおとぎ話としての価値しか持っていなかったという頑固な常識的見解をはるかに越えて、論は進行していきます。性差とは何か、男と女とは果たしてどのような意味を持ちうるのか。この永遠の問いに本書は、およそ考えられる限りの論を尽くすようです。性の在り方に根源的な問いを投げ掛ける現代人によって書かれた名著です.
この視点は「明恵、夢を生きる」では、さらに規模を増して論じられます。


エッセイ 新春雑感

新春だから、何か書いてみようと思うが、さて、これと言って浮かばない。何かめでたい記事になれば良いと思うが。


わたしは、ある人のことを深く考えるときには、どうしても、その人の宗教観が気に掛かる。その人が無宗教の人であっても、その人の家の宗教のことが気に掛かる。


宗教というのは、おもしろいもので、匂いが付き纏うものである。仏教なら抹香臭さ、キリスト教ならバタ臭さ、インディアンならタバコ臭さというような具合に。そうして、ご本人は、その匂いには鈍感なもので、それがむしろ正常な状態と言っていいものである。


それで、日本の神道であるが、世界の諸宗教と比べてみても、私見ではあるが、匂いというものをほとんど感じさせない不思議な宗教である。


日本人は無臭を好む性癖があるようだが、これは日本の神道の影響を強く受けているものと言っていいのかもしれない。日本の神道は、ある世界観を志向しない。八百万の神とは言うが、これは西洋人の言う汎神論的な宗教とは、まるで趣を異にする。宗教に付き物の生臭さをまるで感じさせないものだからである。


ある世界観を志向しない、八百万の神々の宗教、これは欧米人だけではなく、世界の他の人々にも、理解するにはじつに困難な宗教であろうと思う。