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エッセイ 現代人にとっての「信」

※この記事には、禁忌に属する事柄が少し含まれています。苦手な方はお読みにならない
 でください。



人間の深奥にある「信」の心は、神や仏などの絶対的な存在におくべきであろう。 これは昔から変わらない事柄である。


横道に逸れるが、日本では無宗教を標榜して、平気な顔をしている人がいるが、これは日本独自の特殊な事情による。私見では、これは儒教の影響が大きい。仏教などの宗教で説く天国や地獄をないものとする考え方は、江戸時代の儒教の国教化の影響によるものである。


例えば、あなたは犬を食べますかとそういう人に聞いてみれば良い。儒教を重んじる日本の隣国では、盛んに食べている。そうした人はそういう禁忌なことに関しては、鈍感なものである。何故だが、自分の心に問うて見れば、嫌でも日本人の宗教性という問題に突き当たるだろう。明治期まで、牛もそういう扱いをされて来たのである。


話を戻そう。現代の新しい顔をした宗教は、その絶対的な存在を身近なそれも人間に置こうとする。信を受ける者も、自分を自分で神様扱いしたがる。なにもこれは、オームに限ったことではない。新しい顔をした宗教の第一の特徴だと言っていいくらいである。何宗であっても同じである。今の世では、人間の神の領域への侵犯がまかり通っている。


現代人には、信ずるということの本当の意味が分からなくなっているように思えてならない。


旧約聖書には、「真昼だというのに人々は道に迷うであろう。」という言葉が見える。これは、現代人のわれわれに突きつけられた言葉だとわたしは思っている。現代は実存的な場だと言っているよりは、よほど気の利いた言葉である。


本当にどうしようもなく道に迷ったとき、人々はワラでもつかむように絶対的なものを求める。それが、ワラではなく、確かなものであることを願うばかりである。



「読書について」小林秀雄 新潮社

小林初期の数ページほどの短文です。初期の小林らしい江戸っ子気質が窺える威勢のいい啖呵を切ったような短い文章ですが、わたしは若い頃この短文を読み、どれほど勇気づけられ励まされたか知れません。この短文は最後にこう締め括られています。「良書は、どのような良書であれ、たった一つのことしか語っていはしない。君は君自身になり給えと。君に何が欠けていようか。」手元に本がないため、記憶の中の不手際な引用ですが、この言葉はわたしの心に深く刻みつけられ、その後、わたしの読書人生の揺るがない指標となりました。


「地中海の感興」ポール・ヴァレリー 平凡社ライブラリー

ヴァレリーは、ベルクソンやアランと並ぶ同時代の哲学者で、詩人でもあり批評家でもありました。明晰な純粋意識を徹底して実験して見せた『テスト氏』は、数学的な意識研究報告書といっていいものです。『ドガ・ダンス・デッサン』では親交のあった画家ドガの言葉をモチーフに、批評文のあらゆる可能性が試され、深遠な哲学、明晰な批評、また、底抜けの冗談まで盛り込まれています。この「地中海の感興」はヴァレリーに近づくもっとも良い短いエッセーで、地中海的な明晰な思考が、どのような風物から生まれてきたものか解き明かしてくれます。漁港に廃棄された大量の新鮮なマグロの切り落としを叙した場面は、鮮烈な画像でも見るような凄絶な美しさがあります。史上に名を残す哲学者、文学者でした。


「コーラン」井筒俊彦訳 岩波文庫

ムハンマドは40才まで、勤勉な商人として働いていました。あるとき、神の啓示を受けコーランを書きはじめました。イスラーム教は、日本から心理的に最も遠い世界的宗教ですが、信者は世界で17億人以上を数えます。コーランは、ムハンマドの口を借りて直接神が語りかける体裁をとっています。ムハンマドというまったく普通の人に神の啓示が下ったことが、本当に神の啓示である証拠だとイスラームの人々は言います。ムハンマドは孤児でした。そのためもあってか、コーランには社会主義的な文も見られます。アッラーの神が信じられないのは、心が病んでいるからだという一文も見えます。現在でもイスラームの人々はコーランに従って生活しています。イスラーム教は生活そのものと切っても切り離せない宗教なのです。