Hideのおすすめ本とエッセイと絵と詩などのブログ

おすすめ本やエッセイ、絵、現代詩などを載せていきたいと思っています。

「和風美人」3 鉛筆画


「和風美人2」をさらに加筆修正しました。


やっと、得心のいく絵になったという感じです。




「ナイン・ストーリーズ」サリンジャー 新潮文庫

サリンジャーはユダヤ人の作家です。日本の禅文化の影響を色濃く受けた人で、巻頭言には白隠の「両手で打って鳴る音を片手で聞け」という禅の公案が掲げられています。サリンジャーは初めから、日本の禅文化に興味を持っていたわけではなく、アメリカで起こった、金持ちの家に生まれ、どこから見ても幸福そうだった青年の自殺という不可解な事件を追っていくうちに、それがサリンジャーにとっての公案のような働きをしたようです。巻頭の短編「バナナフィッシュにはおあつらえ向きの日」はその事件を元に書かれました。寡作の人です。


エッセイ きれぎれ草 2

自我形成
自我を形成するとは、周囲から自分が切り取られることである。自我は切り取られた傷口に沿って自分を形成していくものである
寒天からナイフで小さな立方体を切り取る。
要点は、その立方体の小片にではなく、切り取られたという、そのことにある。
そうして、再び周囲と新しい関係を築くこと。自我形成とは、その営々たる繰り返し作業に他ならない。


     〇


虚子俳話録
「私は人には、鬼のようにも仏のようにも見えるんですね。」
そう語る鬼でも仏でもない虚子がいる
「私は何もいらない。虚子一個で充分である。」
俳諧というせまい世界で、個性というものを着古した衣のように無造作に着て、平然とすましている男。
川端康成の言った通りおそろしい人である。


     〇


ゲーテ
「人生とは真剣な冗談である。」こうした言葉を残し得た人は俳諧の滑稽な俳味というものも理解できた人であったろうと思う。


     〇


ベートーヴェンはなんと強力に、自分自身であることか。そうして、晩年のop101以降、あんなにもエギゾチックに、つまり、東洋的に見事に自我を放擲していることか。


     〇


実存主義批判
われわれは世界に放り出されている。
そうだとすれば、いったい誰が放り出したのだろう。
キリスト教こそ、あらゆる宗教の中で、もっとも実存的である。
「たとえ、空が落ちてきて、地が割れようが」なんという実存的な不安な生存の表明だろう。


     〇
     
キリスト「山上の垂訓」
人間性を、極限まで純化し、その心塊を、ダイヤモンドカットのように切り出したような訓戒。
戦慄すべき剣の道徳である。


     〇


キリスト教は信という、言わば、底辺の徳を根幹に据えた宗教である。だから、イエスかノーかということにあんなにもこだわるのだろう。


     〇


罪悪意識とか罪悪とかいろいろにいうのは、宗教の常だが、罪悪というものを、いくら捏ね回してみても、何が得られるというものではないのだろう。
罪は贖えるものであるということ。
それで、なんの過不足もありはしないのではないか。


     〇


自我というものは
色々思い巡らして見ると
弱かろうが強かろうが
偉大だろうが卑小だろうが
どうでもよいと思えるときがある。


      〇


アルゲリッチという女流ピアニストが、何を目標にしているのかというインタビュアーの質問に接し、間髪を入れず「自我の確立」と応えているテレビを見た。このプエルトリコ生まれのピアニストの念頭にはきっとセルフリアライゼーションの考え方があったように思えたが、ヨーロッパ文化の生み出した自我の最高傑作として、ベートーヴェンの姿の方がより心を占領していただろうとぼくは勝手に推測したものだった。
ただ、今は自我確立ということに関しては、ぼくは往年の興味はなくなった。


       〇


後期のベートーヴェンは、前期中期と比べると、宗教で言うと自力と他力くらいの違いがある。
ナポレオンが奇跡的に改心し、信仰生活に入ってしまったというようなそんな空想さえ湧いて来る。
しかも、直接に宗教的でありながら、ある特定の宗教を指向していない。音楽が裸のままで宗教性の根元に達しているような、そうした感がある。  
私は、そこに東洋的なエキゾシズムを見るのだが、「大フーガ」は、中でも、西洋人にとって、東洋精神に推参するためには、どうしても飲まねばならない、薬効抜群の苦杯。そんな風に思う


エッセイ きれぎれ草 1

問題
世の中の問題というものは、それがそのまま解決されることは、稀な事態である。通常はそれを問題とする必要がもうなくなったから、自然とその問題が解消されるという形をとるものである。われわれが、日頃頭の中で思い煩っている問題にしても同じことが言える。



内村鑑三
明治期以来、もっとも霊性的な人間といっていいのではないか。彼の書いた文章には、直に聖霊の存在を感じさせるものがある。



ニーチェ
神はいないのではなく、神は死んだのである。
誠実極まりない賭博者。よりによって、自分の全人生を賭ける。
勝負をする者には、灼熱する生の贈り物。
精神の猟犬。我々が逃げ込もうとするあらゆる安楽な避難所を、鋭い嗅覚で嗅ぎ分け、追い立て、あやまたず、自らをまた我々を白日の下に曝す。
ニーチェの言葉には、どれにも強い電流が流れているようだ。ときおり、その感電力の強さには、嘔吐さえ催してくるが。



神は、人間の偉大な発見であるか。



男は力を見せつけようとする。
女は関係を見せつけようとする。



運命は偶然と思える人には、偶然だが、運命の力にどうしようもなく追い込まれた者にとっては、顔面にしっかりと刻み込まれたしわのようなものだ。それが、良相であれ悪相であれ、自分ではいかんとも為し難い。
反省が、運命を好転させると考えるのは、空想に近い。反省はむしろ運命ののっぴきならぬ相貌を、ありありと眼前に描いてみせてくれるものだ。
運を好転させるものは、昔から言われているように笑顔である。笑顔とは、不思議なもので、なんでもない一人でいるようなときに笑顔を作ってみるとよく分かるのだが、これだけで、心の内部にまで影響を与えるものである。 



理が中を得ることは、さほど難しいことではないが、感覚や感情が中を得ることはとても難しいことであるようだ。



学問は、孟子の言うとおり、失った自分を見つけるための、最良の近道だろう。


エッセイ 理念と原理

※ほぼ、3カ月ほど中断しておりました。これからは、ぼちぼちUPしていきたいと思っています。<(_ _)>


理念というものは原理的に扱われると、自分や他人を傷つけずには置かない両刃の剣となる。この理念というものは、キリスト教を代表とする、唯一神を奉ずる西洋諸国の宗教からもたらされた観念であるという認識は、まず、必要だろうと思う。


ところで、原理とは、数学的、物理学的な公式であり、とりのけを許さないという性質を持つ。人間的原理という誤解されやすい怪しい観念があるが、これは、物質的原理という生母から生まれた嫡出子ではない子である。強引に人間側に引き寄せられた観念である点で、ある違反を犯している。


物質や数式は、現代物理学や数学では、だが、ごく微妙なところで、原理に反抗する性質を帯びるようであるし、それを否定してはなるまいが、一応、そうした性格を無視したとしても、成立する学問である。


そうして、理念というものは、唯一神教的な性質を帯びていることを、想起してもらいたい。この宗教は、とりのけを嫌う。唯一神教は、理念的宗教だからである。ただ、キリスト教に関しては、キリストが行った奇跡を思い起こしてほしい。そのために、奇跡が起こったとき、それが真に神による奇跡か魔女の仕業によるものか、奇跡委員会というものまで立ち上げて、厳密に査定したという歴史を持っていることを、忘れてはなるまい。理念という観念は、宗教的にも、科学的に扱われても、その力学は変わらないが、西洋諸国はその力学と苦闘してきた長い歴史を持っているのである。理念という言葉は、唯一神教を軸として、徹底的に磨き抜かれて来たと言い換えてもいい。


そうしたideaという言葉に<理念>という新語を当て嵌めて、この両刃の剣を平気で振り回している国は、日本だけに限らないようだが。日本風の論争の仕方を見ていると、明治期以後もたらされた夥しい新語が、不慣れな手つきで扱われ、無用な感情論を引き起こし、ようやく常識(これも新語であるが)によって、落ち着くところに落ち着く、つまり、落としどころを探すという作業をしているように見えて仕方ない。ただ、イデオロギーというような、本当のところ誰もその意味をよくは知らない新語中の新語が、影をまったく薄めたのは、結構な傾向ではあるが。


理念とはイデー、つまり、精神的原理であり、原理とは、物質的原理である。そうして、精神的原理は、多くの取り除けを必要とするものであることを忘れてはならないものであろう。