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おすすめ本やエッセイ、絵、現代詩などを載せていきたいと思っています。

「死の家の記録」ドストエフスキー 新潮文庫 <人間の可能性の宝庫>

作者は四年間、政治犯としてシベリアの監獄で獄中生活を送りました。その体験から書かれたのが本書です。文句のつけようのない確固とした写実性に貫かれ、囚人たちの異様な、また最底辺の日常生活が克明に描き出されます。ダンテスク<ダンテ的な>とまで評された風呂場の情景。凄惨な三千にも及ぶ笞刑。労働の本当の在り方を問う廃船解体の場面。野獣としか言いようのない囚人から、驚異的な精神力を持った囚人。また、比類ない人間性の輝きを放つ囚人、民話から抜け出たようなお人好しの囚人等々。無私に徹した作者の見事な観察眼によって、鮮やかなありのままの人間たちの姿が、目の当たりに見えてきます。人間の可能性の宝庫と言って良い書物です。「罪と罰」の名が大き過ぎて、あまり目立ちませんが、ドストエフスキーの名を世界的にした非常な名作です。因みに、当時のロシア皇帝アレクサンドル一世は、この書を読んで涙し、監獄の待遇が改まったと伝えられています。

和牛の不思議

現在、一番上等な牛は、世界で公認されている和牛である。オーストラリアがWagyuの商標を取って世界に売り込んでいることでも知られる。


だが、明治期になるまで、日本では牛を食う習慣はなかった。こんな滋養に富んだうまい食品が、すぐ近くにごろごろいたのに、また、どうしてだろう。


日本人の寿命が延びたのは、食の欧米化のせいとされているが、わたしは、この原因は抗生剤の発達もその一因だとにらんでいる。


日本人は経験知の豊かな国民である。牛が健康に適った食品であったなら、和牛を食わなかった理由が見つからない。牛車や農耕用の働き手として使われてはいたが。


当時の社会の最下層の人々が食べていたことは知られているが、彼らの健康状態を推し量る文献は見当たらないようだ。


どうして、また、精をつける食品が、牛ではなく、鰻だったのだろうか。不思議である。また、そこまで、牛を食うことを忌避する文化をあっさり捨ててしまったことも、同じように不思議である。


ある日本人は、自分の体よりも大きなものを食うことは、良くないと言っていたが、迷信めいていて、あまり、説得力のある意見とは思えなかった。それでは、鯨を食っていた文化はどうであるのかと思った。


なんとも、不思議に思えて仕方ない。まるでイスラームの豚のようである。明治期までであるが。

「明日できることは今日するな」 <イスラム>

表題は、イスラームのことわざである。この言葉には、大きな知恵が宿っていて、現代のような気忙しい世の中では、こんな言葉は間違いだという人もあるだろうが、人が生き延びていくためには、よくよく考えてみれば、明日という日をしっかりと信じていなければ本当には生きていけない。経済的で効率的な観念よりも人を重視すれば、よく、飲み込める言葉のはずである。


「迷ったら、せぬが良い。これ生き延びる道ぞ。」これは一言芳談抄にある、徒然草にも引かれている言葉である。わたしは、座右の銘を持たないが、この言葉にはずいぶん助けられたことを覚えている。


「進歩よりも円熟」、これはわたしの祈願である。


最初は分からない <クラシック音楽>

セゴビアという名ギタリストがいる。ある友達がその人を当然のごとく絶賛しているのを聞き、早速買って聴いてみたが、良さがさっぱり分からなかった。1930年代くらいの古い録音で、多分SP番からの復刻だろう、録音状態の悪さもあって、何がいいんだろうと思っていた。それに、演奏自体も取っ掛かりのない弾き流しの演奏のように聞こえた。


それから、五年くらい経った頃だろうか、パソコンに入れて置いたのを、なんとなく聞き流していたときに、ハッとその魅力に気付き感動した。今では、もっともよく聞く演奏のひとつになっている。


ベートーヴェンも大学生の頃、買って聴き、後期のピアノソナタやカルテットは一部だけ除いて、最初は何か得体の知れない言語でも聴いているように聞こえ、少ない小遣いから折角大金を出した(当時1万5千円くらいだったと覚えている)のに、買って失敗したと思ったくらいである。


ベートーヴェンは後期だけでなく、初期の有名な作品18の6曲のカルテットも最初はまるで分からなかった。何がいいんだろうと首を捻ったくらいである。


グールドのバッハのヴァイオリンソナタやチェロソナタの演奏もそうだった。


芸術は、音楽だけではなかろうが、初見や初聴だけでは、どうしても分からないものがあるようである。


ある著名なクラシックなりが、わたしには分からないまた、つまらなかったという言葉を聞くと、わたし自身はいつも心の中で、この人には辛抱というものが足りないなといつも思う。


これは、広い意味でのクラシックだが、「罪と罰」を中学生の時に読み、つまらなかったのでロシア文学全体をあれはつまらないものだと平然と批評して憚らない高校の国語教師に出会ったものだが、この人は決して文学に対する感受性の欠けた人ではなかった。読んだ時期がいけなかったのである。小学生の時に「罪と罰」を読んだという高校生にも出会ったものだが、これは完全に肥料の与えすぎであって、ただ読んだというだけで、なんにもならなかったようである。


芸術との出会いは、人物との出会いに似ている。こちらにある程度の用意がなければ、ただ、素通りされてしまうだけのもののようだ。