Hideのおすすめ本とエッセイと絵と詩などのブログ

おすすめ本やエッセイ、絵、現代詩などを載せていきたいと思っています。

「文藝復興」林達夫 中公文庫

林達夫はフランス文学者で、まとまった著作がほとんどない人でした。この書物も、雑多な文章を集めたものと言ってよく、どれも書き流された感がありますが、そのために発想は自由で自在、ときにきらめくような文章に出会います。哲学者の三木清とも交流があり、その経緯を書いた文章が他の書物に見えます。日本のモラリストといってよい学者でした。


エッセイ ゼルキンのモーツァルト

ゼルキン&アバドのモーツァルトのピアノ協奏曲集を聴き込んだ。ゼルキンは亡くなってしまったが、これが彼の最も良いモーツァルトの演奏となったようだ。ゼルキンはモーツァルトのピアノ協奏曲は弾くのだが、モーツァルトのピアノソナタの方はほとんど弾いていないようで、わたしは寡聞にして知らない。あんなにモーツァルトのピアノソナタを砕いて、見事に弾き熟したグールドは、何故か、ピアノ協奏曲の方は若い頃の24番の一曲しか録音していない。ゼルキンとはまったく対照的と言っていいようだ。


ところで、モーツァルトの中でも、これはという名曲を挙げよと言われれば、ピアノ協奏曲は、誰もが上位に来ることを望むだろうし、また、それだけの力のある名曲揃いである。ただ、個人的な見解で申し訳ないが、それこそモーツァルトの最後のピアノ協奏曲K595の27番は、わたしは白骨美人を眺めているような気にさせられて、あまり好きではない。


ちなみに、このK595辺りの時期のモーツァルトには、何かどうにもならないような虚無感が漂っているように見える。それを乗り越えてのK620の「マジック・フルート」やK622の「クラリネット協奏曲」である。この両曲の放つ不思議な方向性を持たない明るさは、本当に音楽における奇跡に属するものだろう。


個人的な好みを言わせて頂ければ、ピアノ協奏曲の中でもっとも好きなのは、K503の25番である。わたしのこの好みは、若い頃とは、ずいぶん違っていて、20番や24番などのモーツァルトでは珍しい短調の曲の方が好みだったのだが、今は、変わって22番や25番に惹かれる。わたし自身の中の何かが変わったのであろうが、どう変わってしまったのかは、自分自身よく分からないところである。


それで、ゼルキンであるが、内田光子の演奏と比べると、どうしてもゼルキンの方が上である。音楽の広がりと深みがこうも違ってしまうものなのかと思う。内田光子も勿論よいのだが、ゼルキンと比べてしまうと、どこか知的に過ぎ、きちんと整い過ぎてしまっている感を否めない。ゼルキン&アバドのモーツァルトのピアノ協奏曲は、あのカザドシェ&セルの名演奏に比肩する。肩の力がまったく抜けているところでは、カザドシェを上回ってさえいるだろう。


だが、内田光子はまだまだこれからの人であろう。彼女がさらに円熟味を増して、名演奏を聴かせてくれることを期待したい。

「風の歌を聴け」村上春樹 講談社文庫

村上の処女作です。ねずみと呼ばれる奇妙な男が登場しますが、曰く言いがたいリアリティーを持った男です。「羊をめぐる冒険」でも、やはりこのねずみが登場するのですが、村上の内面の心と切っても切れない関係を持った物語上の登場人物であることは、論をまちません。その内面の分析よりも、むしろ、その風の歌のような実在性にわたしは心をひかれます。


「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹 新潮文庫

この小説も二つの物語が、同時進行します。ユニコーンと言われる一角獣の骨の標本が、二つの話をつなぐ支点となっていますが、両話がどう繋がっているのかは、読者の判断に委せられているようです。ハードボイルドと静かな物語。ここで、村上の言いたかったというようなことを憶測するのは、野暮というものでしょう。村上は書きたかったことを書いたのです。村上の小説には「もの」に対する愛惜がにじみ出ているようなところがあるのですが、小説の最後に、主人公が借りるレンタカーの詳しい車種までもが、鮮明な印象となって心に残る小説です。


「ねじまき鳥クリニクル」村上春樹 新潮文庫

ある意味で、勧善懲悪的な物語と言っていいのですが、村上の語り口には、真新しさがあります。かなり残酷な場面が精細に描かれるのですが、読む者は、むしろ、目を背けることなく、作者と一緒になって、そうした場面が展開していくのに見入ってしまうようです。物語が終わった後は、明るい悪夢から目覚めたような気にさせられます。村上の佳品です。