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エッセイ 自由という女神 「『罪と罰』考」

「罪と罰」のラスコーリニコフは、自分で抱いた自由思想を全人格で実践した男である。そこには、何の妥協もないのであって、誰にも、それを止める力はなかった。そうして、凶行を遂げた後に、良心の呵責が容赦なく襲いかかっても、自由を追い求める彼の悪魔的な頑強な人格は、それによって、崩壊することはないのである。そうなのである。彼は、豊かな良心を持った殺人者という、一見、不可能と見えるパラドックスを、強硬に生き抜くのである。


饒舌に、また巧妙に正義を語る強敵の予審判事ポルフィーリーは、ラスコーリニコフの頑強な人格の抵抗に出会い、「わたしはおしまいになった人間です。」と生々しく自分の正体を白状しなくてはならない。また、「これは現代的なファンタスティックな事件です。」とポルフィーリーが言っているのも見逃せない。彼には、ラスコーリニコフという人格が本当には、信じられていないのである。だから、ラスコーリニコフが自殺した後の話も持ち出すのである。


自由な欲情の衝動を誰に邪魔されようと強硬に生きようとするスヴィッドリガイロフは、ラスコーリニコフの「それは、要するに単なる官能に過ません。」という一言によって、言葉を失うのである。実際、ラスコーリニコフの妹のドーニャをどうしても征服できず、この同じように悪魔的に大きな人格を持った男は自殺の道を選ぶのである。自由な衝動を生きようとするのは、ラスコーリニコフと同じだが、肉体はついに精神を凌駕することはできない。


誰も、ラスコーリニコフの人格を征服することができない。小説の最後で、スヴィッドリガイロフの訃報に触れて警察署から出てきたラスコーリニコフは、自分が出会った最大のキリスト教的な倫理の持ち主であるソーニャの絶望した顔に出会う。読み間違えてはならない。このとき、最大の倫理さえ絶望し、彼は勝利したのである。この勝利を確信したからこそ、ラスコーリニコフは、「にっと笑う」のである。


この簡潔に描かれた箇所は、肝心要なところなので、ドストエフスキーの小説が冗漫だとか冗長だというのは、まったく当て外れな非難で、彼は冗漫で饒舌な人間にだけ、冗漫で饒舌にしかしゃべらせてはいないのである。このとき、ラスコーリニコフは本当に自由な立場にある。あらゆるものが彼の悪魔的に大きな人格の前に膝を屈し、彼は勝利したのである。小説では、実に簡潔に書かれているが、ここに来るまで、彼はありとあらゆるものに追い詰められ、そのたびに勝利してきたのである。最後は、ソーニャという壁に突き当り、本当にぎりぎりのところまで来たことを悟った。ソーニャは壁であって、決してラスコーリニコフという人格を支配できない女なのである。だからこそ、自分の自由意志によって、自分が犯した殺人を自白するために、翻って階段を上るのである。


自由思想のためでもなく、倫理のためでもなく、ソーニャのためでも、自分のためでも、もちろんない。ラスコーリニコフは自由そのものとなって、差し出された水を制し、正確にまた簡潔に供述を繰り返すのである。自由意志そのものによって、自白が成就され、ピリオドとなる。


小説では、長いエピローグがその後に続く。これは、ハムレットにも見えるアンチクライマックスと見てよいが、彼の人格は、その自白によっても、決して変わりはしないのである。それにしても、なんという、複雑怪奇な自由の在り方だろうか。


「罪と罰」が複雑極まりない物語でありながら、純一で強烈な感動に統一されるというのも、ドストエフスキーによって、この自由というものの厄介な性質が正確に見抜かれているためではなかろうか。この女神によって宰領された移ろい易く裏切りやすいものをこの物語の中に縦横無尽に駆使させることに成功させた。


その点、「罪と罰」は「ハムレット」に似ているが、自由感情の在り方がまるで違っている。大きく言って、「罪と罰」は負の自由感情の物語であり、「ハムレット」は正の自由感情の物語である。


小林秀雄は、「ハムレットとラスコーリニコフ」という短文で、両者の類似性を書いているが、この鋭敏極まりない批評家が、ハムレットを誤読しているのが感じられる小林にしては、極めて珍しい文章である。ラスコーリニコフは、金貸しの老婆の家までの歩数を正確に数えるのだが、ハムレットがクローディアスの部屋に行くのも、舞台上の制限で隠れているが、同じ動きがあったと推断している。これはどう見ても、小林の読み間違えである。ハムレットがそんな男であるはずがない。小林の数多い評論の中でも、ほとんど唯一の誤りと見える箇所である。


ラスコーリニコフの抱いた自由思想が正しかったかどうかは知らない。ただ、それが負の自由感情から導き出されていることに違いはなかろう。そして、その実践はCrimeとならざるを得なかった。それも、もっとも重大な殺人というCrimeである。ここでも、ドストエフスキーは、自由の限度を突破していると言える。


自由を宰領するのは、移ろい易く裏切りやすい女神であるという認識は、避けて通ってはならないものであろう。心の輝きが稀なものであるように、自由は、自由意志によって成就される行為という極く稀なものによってしか光りはしない。


話は逸れるが、なんでもいいから、ムチャムチャな事がしてみたいという心情は、日本人共通の心持ちのようであるが、方向をもたない衝動を制御するのは、礼に他ならない。その点、日本人のマナーの良さは賞賛されて良い。そうして、礼とは形式である。性悪説を説いた荀子が、礼をどの徳よりも重んじたのは、偶然ではないので、現代日本人が無意識の裡に欲しているのは、礼という形式に違いないとわたしはかんがえている。だが、形式というものは個人の力でどうにかなるものではない。営々たる努力と何世代にも渡る建築的意志がなければ、その萌芽さえ掴めないものである。破壊は酔っ払っていてもできるが、建築は覚めた意識的な努力がなければ成し得ない。当然至極なことであるが。


序でながら、ドストエフスキーのことをもう少し、言って置きたいが、ドストエフスキーはその人間だけを見れば、小人の中でも下に属する人間である。実生活の上で、徳を現し得たのは、第二の妻であるグリゴリーエブナひとりに過ぎない。小説家とは小人の説であることをこれほど体現した人間もいないので、同時代のトルストイと比べると、実は、比べるのもどうかと思われるほど、月とスッポンくらいの違いがある。トルストイは前にも書いたように王の素質を持った大人物である。偉大な君子である。ト翁という言葉はあるが、ド翁という言葉はないのである。


ドストエフスキーは俗物中の俗物である。バルザックもこの点変わりはないので、自分の名前に貴族を表す「ド」を入れて、オノレ・ド・バルザックと書いて平気でいる大俗物である。両者とも、大文学者であることに変わりはないが、ここが小説という自由な文学形式の複雑なところであろう。


漱石について言うと、ドストエフスキーについては、「あんな病的な作家の小説を読んではいけない」と弟子たちに言っている。なんとも不見識な意見のように思えるが、人間としてだけ見れば、漱石の方がドストエフスキーより数段上であって、あんなに優秀な弟子たちは、ドストエフスキーのまったく持たなかったものである。ただ、小説家としては、漱石とドストエフスキーでは比ぶべくもないほど後者が上である。


さらに、序でに言って置けば、菊池寛はその漱石より上に置かれるべき偉人である。