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エッセイ 「罪と罰」再考

ある「罪と罰」の本の帯に、「ラスコーリニコフは、偶然、犯した第2の殺人によって自白する。」と書かれていた。だが、これは、大きな誤りであって、ドストエフスキーという詩人の思想を誤解するものである。「罪と罰」が感傷家によって、読まれた一例でもあるだろう。


こう質問してみよう。もし、偶然、リザヴェーダが居合わせなかったとしたら、彼は自白しなかったのであろうか。偶然とは、よくない言葉である。


ラスコーリニコフは、自分の抱いた自由思想を強行した男である。自由思想は彼の良心によって、何度も何度も検証され、反復して確かめられ、その正確さを磨いていくのである。その正確さを確かめるために、彼は強度の負の感情に陥り、ほとんど絶望の域にまで達しても、彼はこの思想のどこにも欠陥を見つけられないのである。ために、世間は、ラスコーリニコフの自由思想を遂行するための、巨大な実験室とならざるを得ないのである。彼が、金貸しの婆さんの家までの歩数を正確に測るというのも、この実験の正確さを期するための実験者としての良心に他ならない。だからこそ、この豊かな良心を持った男は、人々の生き血を吸う「しらみ」のような金貸しの婆さんを、対象として正確に選び出すのである。


ラスコーリニコフにとって、実験室と化したこの世間の中を歩いていたとき、「婆さんは何日の何時に家にいる。」という話し声を耳にする。これは、偶然であったか必然であったか。この上もなく正確さが期された彼の実験遂行の自由意志にとっては、簡潔で正確な、実験遂行の合図であった。その衝撃に耐えられないほど、すでに、彼の良心は試されていたと言ってもよい。


詩人は、殺人の場面を、正確極まりなく書いている。斧は、固く縛られた銀時計の糸を必死になって、解きほぐそうとするあさましい婆さんの頭上に、ほとんど自動的に機械的に振り落とされる。自由意志によって為されるはずの凶行は、その手に、何の力も与えないのである。凶行は、斧の惰性の重みによってのみ遂行される。女神は見事に彼を裏切ったのである。


そして、リザヴェーダが不意に現れる。世間を実験室にしようとしたラスコーリニコフにとっては、不意に自分の実験室に現れた、見ず知らずの人間であった。世間を純粋な実験室にしようと企てた、この自由精神は、世間は実験室たり得ないことを知った。もし、純粋な実験室であったなら、それは、自由の越権行為である。ラスコーリニコフの女神には、元々そんな力はないのである。このとき、実験室は風穴を空けられたのである。偶然なのではなく必然なのである。


彼は、今度は、あさましい殺人者の本能をもって力強く斧を振るって凶行に及ぶ。すでに、殺人を犯した彼には、必然的な行為なのである。


無意識という言葉を、乱用してはならない。先の本の帯の言葉は、この言葉の乱用から起こっている。「無意識による良心の咎め。」という意味である。それなら、ラスコーリニコフの抱いた自由思想は本当に正しかったのか。婆さんを殺したことは、自由思想による良心の呵責を伴なわい凶行であったのか。「罪と罰」には、そんなことは、一言も書かれては、いないのである。


ラスコーリニコフの無意識に現れるのは、ケタケタ笑い続ける婆さんの幻である。彼は、もう一度現れて見ろ。何度でも殺してやると狂憤して叫ぶのである。良心は、すでに絶望の淵に達するまで、試されているのである。彼は、正気か狂気か判別もつかぬ道を行くのである。婆さんの幻は、彼の良心の呵責そのままの無意識の表現であって、そこに、リザヴェーダの幻が、付け入る隙はないのである。リザヴェーダは、言わば、この大きな毒虫の背後に隠れた力のない小さな虫なのである。だからこそ、豊富な良心を持ったこの男からは、「リザヴェーダ、奇妙だ。」という小さな述懐しか得られはしないのである。リザヴェーダは霊となって、ラスコーリニコフを襲いはしない。そうした力がないほど、彼女は小さな、哀れという言葉を使うのもどうかと思われるほど、彼の実験室に風穴を空けるためにだけに現れた存在なのである。この大きなラスコーリニコフという人格を、根底から動かすに足りないのである。


また、ラスコーリニコフが、そうした弱々しい感傷家であったなら、始めから、こうした最新式の事件など、作家がリアリティを持って書けたはずもない。読者は強烈な感動を味わうこともなかったであろうし、読者を納得させることもできなかっただろう。