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おすすめ本の紹介文やエッセイ、絵、人物画、現代詩などを載せていきたいと思っています。

エッセイ きれぎれ草 2

自我形成
自我を形成するとは、周囲から自分が切り取られることである。自我は切り取られた傷口に沿って自分を形成していくものである
寒天からナイフで小さな立方体を切り取る。
要点は、その立方体の小片にではなく、切り取られたという、そのことにある。
そうして、再び周囲と新しい関係を築くこと。自我形成とは、その営々たる繰り返し作業に他ならない。


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虚子俳話録
「私は人には、鬼のようにも仏のようにも見えるんですね。」
そう語る鬼でも仏でもない虚子がいる
「私は何もいらない。虚子一個で充分である。」
俳諧というせまい世界で、個性というものを着古した衣のように無造作に着て、平然とすましている男。
川端康成の言った通りおそろしい人である。


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ゲーテ
「人生とは真剣な冗談である。」こうした言葉を残し得た人は俳諧の滑稽な俳味というものも理解できた人であったろうと思う。


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ベートーヴェンはなんと強力に、自分自身であることか。そうして、晩年のop101以降、あんなにもエギゾチックに、つまり、東洋的に見事に自我を放擲していることか。


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実存主義批判
われわれは世界に放り出されている。
そうだとすれば、いったい誰が放り出したのだろう。
キリスト教こそ、あらゆる宗教の中で、もっとも実存的である。
「たとえ、空が落ちてきて、地が割れようが」なんという実存的な不安な生存の表明だろう。


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キリスト「山上の垂訓」
人間性を、極限まで純化し、その心塊を、ダイヤモンドカットのように切り出したような訓戒。
戦慄すべき剣の道徳である。


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キリスト教は信という、言わば、底辺の徳を根幹に据えた宗教である。だから、イエスかノーかということにあんなにもこだわるのだろう。


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罪悪意識とか罪悪とかいろいろにいうのは、宗教の常だが、罪悪というものを、いくら捏ね回してみても、何が得られるというものではないのだろう。
罪は贖えるものであるということ。
それで、なんの過不足もありはしないのではないか。


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自我というものは
色々思い巡らして見ると
弱かろうが強かろうが
偉大だろうが卑小だろうが
どうでもよいと思えるときがある。


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アルゲリッチという女流ピアニストが、何を目標にしているのかというインタビュアーの質問に接し、間髪を入れず「自我の確立」と応えているテレビを見た。このプエルトリコ生まれのピアニストの念頭にはきっとセルフリアライゼーションの考え方があったように思えたが、ヨーロッパ文化の生み出した自我の最高傑作として、ベートーヴェンの姿の方がより心を占領していただろうとぼくは勝手に推測したものだった。
ただ、今は自我確立ということに関しては、ぼくは往年の興味はなくなった。


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後期のベートーヴェンは、前期中期と比べると、宗教で言うと自力と他力くらいの違いがある。
ナポレオンが奇跡的に改心し、信仰生活に入ってしまったというようなそんな空想さえ湧いて来る。
しかも、直接に宗教的でありながら、ある特定の宗教を指向していない。音楽が裸のままで宗教性の根元に達しているような、そうした感がある。  
私は、そこに東洋的なエキゾシズムを見るのだが、「大フーガ」は、中でも、西洋人にとって、東洋精神に推参するためには、どうしても飲まねばならない、薬効抜群の苦杯。そんな風に思う