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エッセイ きれぎれ草 5

   福井の方の年始行事に、弓打ち講というものがあるそうで、的に矢を放ち、その年の吉凶を占うものだそうだが、これは的に矢が当たらないときの方が、吉で、却って的に矢が当たってしまっては、凶事が起こるとされているそうである。
 批評ということと、重ね合わせてかんがえてみるのだが、あまりにも的確で、息を飲むほど的をついている批評というものは、なにかしら不安で、すこし不気味な感じさえ与えるもので、的を外した方が、吉事が起こるというのは、おもしろい考え方だと思った。
 的を狙って、外しているのか、当たっているのか分からぬような徒然草のような名文がある。
 徒然草のあの全体的に明るいトーンは、いったい、どこから来ているのかと、わたしはよくかんがえることがある。批評精神の横溢した随筆が、なにゆえあのような明るさを持ち得るのか。
 徒然草に比べると方丈記の方は、もっと切迫していて痛切で色調が暗い。目立つような矛盾もなく、一貫していて分かり易いが、仏教的な抹香くささが強く漂っているのは、どうしても否めない。
 その意味では、徒然草の方が、はるかにのびのびとした自由な批評精神がある。批評も行き着くところまで行けば、批評自身を否定するようなものであるようだ。


       〇


 分からないということは、不安なことであるというより、むしろ不快なことである。だからそれについては、多くの人は心を閉ざす。分からないことが、自分にとって何か大切なものではないか、と思い始めるとき、人ははじめて不安にかられる。


       〇


 人と話をしていて、何をどう言っても通じようのないときがある。あとで振り返って見ると自分の険しい雰囲気や苛立った仕種などがすでにものを言っていて、話す言葉はことごとく果敢なく宙を舞っているような状態であることが分かる。
 そういうときは、語調にもすでに押し隠された棘がある。雰囲気や仕種は確かに言葉より雄弁である。


       〇


 天才の作品を理解するのには、必ずしも天才であることを要しない。むしろ、天才は他の天才を理解するのが苦手なようである。自分の中の強力な創造力の文脈があるから。