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エッセイ きれぎれ草 9


ユング<イメージの心理学>
ユングの自伝を読んでいると、ユングが人生を決定するような強烈なイメージに襲われるときは、それは、襲われるという言い方に相応しいものだが。
それを自分のうちに引き受けるのに逡巡する何日間やときには何週間かがあって、そのときには、ユングは鬱に近い状態に陥るのだが、そのイメージは自然にユングの心の中にやって来たというのではなくて、ユングがその重荷をはっきりと自分に引き受けると覚悟を決めてから、その姿を明確にユングの心の中に現すというかたちをとる。
自然の猛威に近い病的なイメージに対抗するのにユングの力強い意志がものを言っている。
例えば、十歳くらいに見たという、神の排泄する夥しい汚物が落下して、教会を破壊するというイメージは、それを明確にイメージすることがいかに恐ろしいことであったかを自伝は具に語っている。そのときのユングはこうしたイメージを心に思い描いても、神は私に罰を与えなかったばかりか生かして置いてくれたということで、大きな神の恩寵を感じたと言っている。
生半可なイメージではないし、我々日本人にもはっきりとその強烈さが感じ取られるものだ。だが、そこに何か、感覚的に全面的に共感できない気味合いが残る。
宗教的なことを言うのではなくて、その強烈なイメージのあまりにも確固とした鮮烈さに拠るようである。  
日本人は、どのように確固としたイメージであれ、それはいわばどのように厳しい夏と言えども、時が満ちれば、それは過ぎ去る夏として、自然とその猛威を失って行くものとして、捕らえられているもののように思えてならないのである。
イメージが鮮烈であればあるほど、日本人はその猛威から身を守る術を自然と知っているのではないかと思えるほどである。だからこそ、枯山水のような、イメージを一度全否定してから、出来上がったような美しさに引かれるのではないだろうか。
ユングを読んでいて、どこかで感じる違和感は、わたしにはそういうところに求められる。


       〇


錬金術
ユングの言うところが本当だとしたら、西洋の錬金術師たちは、心の内奥を探索するのに、何故ああも現実のものに拘ったのだろうかと不思議でならない。だが、そうした錬金術師たちの努力が、科学をあれほど発展させたことは紛れもない事実なのだが。
そこには東洋的な心性とはまるで異なったものがあるようだ。言ってみれば客観的な証拠がなければ真ではないという、内なるものは、必ず外在化するという、西洋的な信仰に支えられているように思える。
西洋の思考は証拠を示さねばならないように働き、東洋の思考は志や誠を立てるように働く。
志や誠を立てるのに、現実のものを利用することは、却って偽りに近くなるのではないかと思われるようである。