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エッセイ 原爆忌 <特攻とアメリカの恐怖心>

特攻は、特攻隊員の側からしか見られないことが多いが、ここで、アメリカ側の兵士の心に、なるたけ寄り添ってかんがえてみたい。


最初の特攻攻撃を受けたとき、アメリカの兵士は挙って、クレイジーだと言った。だが、次々とやってくる特攻を見て、単なる狂気の沙汰ではないと悟ったとき、突っ込んでくる前に、打ち落とす命令が下った。そのとき、機関銃を撃ち続けた兵士の心に寄り添ってみよう。自省できる兵士なら、「俺の国に、こんなことをやってのける兵士は一体何人いるだろうか?」という疑念がよぎらざるを得なかったのではなかろうか。機関銃を握っていた彼の手は、じっとりと嫌な汗で濡れていたことだろう。


アメリカ人の肝胆を寒からしめた、この特攻攻撃は、自分の国で、頼りになるのはもはや物量しかないことを悟ったであろう。国民性としては金儲けが得意であるが、ピューリタニズムの精神は、もはや地に落ちている現状をどうしようもない。


原爆はアメリカ人の知を結集して速成された。大空襲も原爆も非人道的なやり方であることは、分かっている。だが、非人道的なことを兵士たちにやらせているのは、日本軍ではないか。アメリカの兵士は本気でそう思いたかったろう。天皇を死刑にさせようとするアメリカの世論が根強かったのは、当然なので、この国では尊皇の思想を理解しようにも、その精神的地盤がなかった。


断っておきたいが、わたしは特攻精神というものを美化などしているのではない。そもそも、美化など余計なことである。それは、そのままの衝撃で、アメリカの恐怖心を煽り立てずにはおかなかったのである。


大空襲、原爆に続く、占領政策はそのこと念頭に置いておかなければ、理解できなくなる。「こんな国に再び軍隊など持たせたら、大変なことになる。」とGHQの幹部たちはみな思ったことだろう。もちろん、そこに、人種差別意識が働いていなかった訳はなかろうが。


GHQは平和憲法を即製し、念入りに硬性憲法にしていった。みな、アメリカの恐怖心がさせた業であろう。


「東洋のスイスたれ」と言ったのは、確かマッカーサーだったはずだが、スイスほど厳重に武装された軍事強国もないのだが。


平和憲法信奉者は未だ根強いが、平和憲法を維持することは、国際的に見ても、国を非常な危険に曝さずにはおかない国家挙げての実験であること。つまりは、大変な痩せ我慢を要する思想に違いないことを、分かっている日本人はどれだけいることだろうか。われわれは、日々、武器を持たないことこそが安全で平和であるという日本でしか通用しないパラドキシカルな常識を世界に示そうとしているのである。


そういった意味では、日本ほど身をもって反省している国はないと言って良いので、ドイツの先の戦争に対する反省など、嘘の皮である。取り柄のない一官僚を悪魔に仕立て上げておいて、みんなこいつが悪かったということにしようとしている。ネオナチという言葉さえまかり通っているお国柄なのである。また、ドイツの動きを見ていると、一度、征服したフランスに、エネルギーの面でも、兵器の面でも頼りすぎているようだ。そもそも、反省は個人の内省に任せられるべき徳である。


江戸時代という世界的に見ても平和な時代でも、支配階級の武士は帯刀を怠らなったのである。抜刀するのは、よほどの差し迫った大事のときであった。これは、現在の日本の警察官が拳銃で武装しながら、発砲するのは、ごくごくまれな事態であるのとよく似ている。


「君子は豹変し、小人は面を革<あらた>める」のである。先の大戦で、面だけ革めて「騙されていた」と騒ぎ立て、幼かった大島渚を唾棄させた大人の俗人はゴマンといたのである。大島は、その後、テレビの政治討論会で「敵が武器を持って攻めて来たとき、どうするつもりだ。」と、威勢のいい若者に問われ、「日本人は丸腰で、戦えばいいのだ。それで、滅びるのならしょうがない。」とまた、威勢良く語っていた。大島には、日本人の俗人根性しか見えなったようである。しずかに豹変した数少ない日本の人物たちは、大島の苛立った目には、映らなかったようである。


俗人が、突然道徳的な人物となり代わり、性行為さえ止めて、人類的な滅びに向かうというトルストイ的な荘厳な理想は、トルストイ自身が、言っているように理想として輝くもので、現実にそんなことを願うのはおろかである。


さて、では、この日本はどういう道を進むことになるのだろうか。