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エッセイ 感想<自由というもの>

大分、以前の話だが、矢口真里というアイドルの女の子が不倫をした。報道で流された彼女の不倫の仕方を見て、それをわたしなりに言葉に直してみると、「わたしは自分の自然な恋愛感情のままに自由に行動したいの。わざとみんなにも分かるようにもやってみる。それの何がいけないの。」と言っているようにも見え、自由という観念についての現代人に共通の錯覚が、垣間見える思いがして、興味深かったのである。


現在、日本の若者(若者だけではないとわたしは確信しているが)の心の中にある根強い尾崎豊流の破壊的な自由も、やはり、誤解された自由の観念で、尾崎はその自由の観念の必然的な力学によって、若死にしたのだが、そうした破壊のみに作用する自由の在り方は、自由意志による行動とは言えないので、そこが、現在、誤解されている自由という意味なのだが、これは少し説明を要する。
 
カントは、「実践理性批判」の中で、自由の徳について書いているが、それを見てみよう。ある人が、誰にも知られないように、自分の友人なり親族なり、また、自分が利益になるようなことができる自由な立場にある。だが、彼は自分の自由意志に従って、そうした不正をせずに、規律に従う自由を選ぶのである。いかにも、ドイツ人らしい自由のあり方だが、そうした自由な道を選んで、彼は何を得るか。自分の自由意志に従ったという徳を得るのである。


自由の徳とは、そんなに堅苦しい、何にもならいようなところにあるのかと言う声が聞こえてきそうだが、自由の徳をよくよく考えてみれば、カントが言う意味以上での自由の徳など有りはしないのである。


付け加えて置きたいが、わたしの言っているのは、自由の徳であって、自由そのものではない、ただ、わたしは思うのだが、この自由そのものという言葉自体が奇怪に思えてならない。自由とは常に、人間の行動と共にある自由意志に他ならいものだからである。


ところで、尾崎流の破壊的な自由の観念とは異なるが、日本人共通の傾向として、なんでもいいからムチャムチャなことがしてみたいという心情があるのは、争えないようである。日本人にあって、自由というものがそうなるというのも、日本語の自由という言葉の語感が、もともとほとんど無方向なものだからであろう。


先のカントの自由の徳の例にしても、日本では「規律を破ることこそ自由」となり、要するに、転倒した形で入って来てしまっている。


こうしたことが起こるというのも、日本の歴史に、それが求められるであろうか。僧でありながら、妻帯肉食をすることで、真の信仰に到達した親鸞や、さらには、肉を食い、女と遊んだ一休禅師の先例が、あってこその話であろう。


また、型に精通した芸能家が、その型を破って、抜群の自由な技を得たという伝統もあるであろうか。ただ、これらの人々はその信仰においても、芸における技においてもたいへんな器量の持ち主であったから、そうなるので、これは、非常に高級な自由のあり方である。「歎異抄」の「念仏者は無礙<むげ>の一道なり」という言葉は、下手に読めば、念仏さえしておけば、念仏者はそれこそ何をしても良いことになってしまう。「歎異抄」という書物が明治初期まで禁書であったという事実を、日本人は忘れがちなようである。


「実践理性批判」で示された自由の徳の例が、おそらくは、上等な平凡人でも可能なほどのやや卑俗なものであったことが、自由の徳の在り所を、分かり難くしてしまったのだろうか。自由とは、確かに、女神によって宰領された移ろい易いものであるようだ。


自由主義思想というものは、未だに、日本人には板に付いていない思想のように思われる。ここには、自由感情と自然感情との無邪気な混同がある。自然感情というものは、倫理に反するものである。そうして、言うまでないが、倫理にこそ徳がある。


自由感情と自然感情、日本人には後者の方が、馴染みやすいものであることは間違いなかろう。だが、どこまで行っても、自然感情に徳というものは求められないのである。


矢口真里の行動がアンナ・カレーニナのような悲劇とならずに、喜劇に終わったのは、この自由感情と自然感情との無邪気な観念上の混同がしでかした業のように思われてならない。現今の自由というものの奇怪な有りようを見ていると、これが、現代社会において、いわば、最大の盲点のようになっているように思われて仕方ないのだが。