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エッセイ きれぎれ草 11

 シューリヒトの音
 いったい、指揮者が変わるだけで、オーケストラの音は変わるのだろうかという根強い俗見があるが、その問いに答える目覚ましい実例が、シューリヒトであると言えると思う。シューリヒトが主に指揮した楽団は、パリ・オペラ座管弦楽団で、ヨーロッパでも一流のオケとは言えない。ウィーンフィルやベルリンフィルと比べれば、素人でも容易に見分けのつくくらいの歴然とした差がある。ベルリンフィルのまるで整然と並べられた真珠のきらめきを思わせる艶のある音色は、パリ・オペラ座には望むべくもない。
 けれども、シューリヒトの指揮にかかるとパリ・オペラ座のかがやきのない空虚と言ってくらいの音が、そのままで、内的な緊張感の漲った異様な生命力を獲得するのである。
始めて聞いたとき私は呆気にとられ、一体何が起こったのかと自分の耳を疑ってしまったほどだが、次第々々に力強く説得され、手放すことのできないCDの一枚になった。
 音は決して良くないのである。シューリヒトの指揮は、むしろ無造作と言っていいくらいで、磨き抜かれた音色で聞く者を陶然とさせる行き方とは正反対のものだ。
 それが身震いのするような、なんというか、空虚でありながら芯のある、みずぼらしい身なりをした賢者を思わせるような音色を聴かせてくれる。指揮者の驚嘆すべき力量がなければできない技であろう。


      〇


 モーツァルトは父親に手紙で書く。
  「僕は音楽家だから音でしか自分の思想や感情を表現できな い。」
  私は長いこと、このモーツァルトの音で考えるということが、わからなかった。だが、あるとき、ふと、そうだ。自分も将棋で考えているときは、言葉は使わないではないかと思い当たった。
 けれども、思い当たりはしたが、モーツァルトのあの輝くような音のテクスチャーと自分の貧弱な将棋経験を同列には論じられない。当たり前なことだ。
 そう思っていたとき、テレビで、加藤一二三元九段が、自分の棋譜を、バッハやモーツァルトの音楽に比べているのを聞いた。
決して、言葉も音も聞かせてくれない加藤元九段の棋譜は、分かる人には、ハッとさせるような意味を開示してくれているのではないだろうか。
 私にとっては、加藤元九段の棋譜は猫に小判だが、モーツァルトのスコアも音が鳴らない限り、私には無益な暗号である。
 ときには、意味で水ぶくれになっている言葉から逃れて、純正な意味を求めたくなるが、私が私の表現法として信じている手段は言葉である。音や将棋の駒よりも不純であるには違いないが、はっきりと自分のものだと言えるのは、この言葉であるという信念だけはあるつもりでいる。