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エッセイ 「神聖にして不可侵」なるもの

微妙な問題になると思うが、この言葉について、色々とかんがえてみたい。知っている人は、すぐにピンと来るであろうが、これは明治憲法で天皇の地位を定めた言葉である。


わたしは明治時代に書かれた文章を読むときよく思うのだが、明治時代というのは、良く言えば、重厚で大真面目、悪く言えば、肩肘張った大仰な表現がまかり通る時代だったということを強く思う。大槻文彦が著した「大言海」の「やまとだましい」の解を見てもこのことは瞭然のように思える。平常心が求められる辞書にしても、そうであるから、これは明治期一般の風であったろうか。


しかしながら、憲法という大事な条文にさえ、この二重形容と言っていいほどの修飾過多な表現が見られるというのは、単なる時代性というものではなく、深く日本人の心性に関わったもののように思えてならないのである。


日本帝国憲法でよいところを、わざわざ「大」という形容を必要としたのも、始まったばかりの政権の基盤が、歴史が浅く軟弱だったという理由もあるだろうが、その以前は、徳川幕府が、上たる不可侵の権力を握っていたのは、間違いないところだろう。江戸幕府は、どのように見たとしても、その時代の生ける不可侵の権力だったということは重要な事柄のように思われるのである。


と言うのは、現在、生ける「神聖にして不可侵」なるものを考えてみると、すぐに今の「平和憲法」に思い至るのではないだろうか。


憲法は、われわれの上にあって、われわれを規定する条文に他ならないのであるが、この国際的に見て、非常識と言ってよい平和憲法を、七〇余年も一文字も改正せずに今に至るということについては、明治期に天皇の地位を、「神聖にして不可侵」と制定せずにはいられなかった日本人というものの心性を思わずにはいられないのである。


わたし自身、内省してみて思うのだが、もし、今の憲法を実際に変えることになると思うと、文学的表現になるが、まるで自分の心臓をまさぐられて、それにメスを入れられるような感情が起こることをどうしようもない。これは、わたし自身にもやはり日本人的としか言いようのない、生ける「神聖にして不可侵」なるものへの憧憬があることを物語っているのだろう。「神聖にして不可侵」なるものが、幕府から天皇へ、また、天皇から平和憲法へとプロジェクトされていると言っていいと思うのである。


わたしには、感傷的に見えてしょうがなかったが、「平和憲法」を世界遺産にしようと運動を始めた学者がいたが、彼にも、同じく流れていたに違いない日本人としての血(としか言いようがないが)を感じてしまうのである。


でなければ、今でこそ融和ムードにあるが、北朝鮮の脅威を目の当たりにしていながら、現憲法を俎上に乗せて議論することさえ憚るような雰囲気はどこから来ているのだろうかと、質問せざるを得ないのである。


これは、先の大戦がまれに見るほど悲惨な戦争だったという以上のものがなければならないことのように思えるのである。


天皇制は、単なる政治体制ではなく、われわれ日本人の血と直結した日本民族の個性的な思想の具現化されたかたちである。尊皇も、単なる感情論ではなく、日本人の血と直結した思想である。


では、平和憲法もそうした思想として、われわれに与えられているものだろうかと質問してみなければなるまい。単に、「神聖にして不可侵」なるものを憧憬するだけの感情論に終わってしまってはならないだろう。


さて、憲法改正は保守本流の悲願であるが、この日本はこれからどのような道を進むことになるのだろうか。