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エッセイ リヒター「ブランデンブルグ協奏曲」&私見

演奏は単なる解釈ではなく、高度な創造的営為であることが、このリヒター盤の「ブランデンブルグ協奏曲」で知られる。


ブランデンブルグには、他にも、ピノックやアーノンクール、レオンハルトのよい演奏があるのだが、(カザルス盤もあるらしいが、わたしは聞いたことがないので)このリヒター盤がブランデンブルグを演奏する際の基準となってしまっているようである。


こういうことは、よほど突出した個性でなければ、起こりえない。


リヒターは、いわゆる、ドイツ表現派に属する人で、第2番のトランペットの強烈な鳴らし方にも、その特徴はよく出ている。だが、こうした楽曲の処理の仕方には、肌が合わないという人がたくさん居そうな気がするし、事実そうであるようだが、そうした生理的な好き嫌いの判断を大きく超えて、わたしたちにリヒターの演奏の真価をどうしようもなく納得させるのは、その私心を廃した、強烈な個性である他はない。


これは、グールドの「ゴルドベルグ変奏曲」でも、同じことが言えるようである。今でも、あの演奏の中のこれが早すぎるとか遅すぎるとか言われながら、どうしようもない基準であり続けているのは、グールドの類い希な、創造的で強烈な個性に拠るものであろう。


ところで、現今、この個性というものを信じ切って、演奏する演奏家は様々な現代的な事情から、居なくなってしまったようである。オーケストラも従来の指揮者中心型から、言わば、オケ中心に変わりつつある。


これは、わたしの推断に過ぎないが、時代は、ある一人の人間の個性を重んじる時代から、人間としての円熟を求める時代に変わりつつあるように思えてならない。


シェイクスピアはある劇中人物に「人間は成熟がすべてである」と言わせているが、自分の個性というものが信じられなくなっている現代という時代は、窮余の一策として、人間性の最後の砦である、円熟に向かうしかあるまいというのが、わたしの私見である。


そうして、この円熟という思想は、東洋、特に日本人には、もっとも近しいものであることは、言を俟たないものだろうと思うのである。