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エッセイ ゼルキンのモーツァルト

ゼルキン&アバドのモーツァルトのピアノ協奏曲集を聴き込んだ。ゼルキンは亡くなってしまったが、これが彼の最も良いモーツァルトの演奏となったようだ。ゼルキンはモーツァルトのピアノ協奏曲は弾くのだが、モーツァルトのピアノソナタの方はほとんど弾いていないようで、わたしは寡聞にして知らない。あんなにモーツァルトのピアノソナタを砕いて、見事に弾き熟したグールドは、何故か、ピアノ協奏曲の方は若い頃の24番の一曲しか録音していない。ゼルキンとはまったく対照的と言っていいようだ。


ところで、モーツァルトの中でも、これはという名曲を挙げよと言われれば、ピアノ協奏曲は、誰もが上位に来ることを望むだろうし、また、それだけの力のある名曲揃いである。ただ、個人的な見解で申し訳ないが、それこそモーツァルトの最後のピアノ協奏曲K595の27番は、わたしは白骨美人を眺めているような気にさせられて、あまり好きではない。


ちなみに、このK595辺りの時期のモーツァルトには、何かどうにもならないような虚無感が漂っているように見える。それを乗り越えてのK620の「マジック・フルート」やK622の「クラリネット協奏曲」である。この両曲の放つ不思議な方向性を持たない明るさは、本当に音楽における奇跡に属するものだろう。


個人的な好みを言わせて頂ければ、ピアノ協奏曲の中でもっとも好きなのは、K503の25番である。わたしのこの好みは、若い頃とは、ずいぶん違っていて、20番や24番などのモーツァルトでは珍しい短調の曲の方が好みだったのだが、今は、変わって22番や25番に惹かれる。わたし自身の中の何かが変わったのであろうが、どう変わってしまったのかは、自分自身よく分からないところである。


それで、ゼルキンであるが、内田光子の演奏と比べると、どうしてもゼルキンの方が上である。音楽の広がりと深みがこうも違ってしまうものなのかと思う。内田光子も勿論よいのだが、ゼルキンと比べてしまうと、どこか知的に過ぎ、きちんと整い過ぎてしまっている感を否めない。ゼルキン&アバドのモーツァルトのピアノ協奏曲は、あのカザドシェ&セルの名演奏に比肩する。肩の力がまったく抜けているところでは、カザドシェを上回ってさえいるだろう。


だが、内田光子はまだまだこれからの人であろう。彼女がさらに円熟味を増して、名演奏を聴かせてくれることを期待したい。